ダイバーの正体に迫る本企画、13人目は小笠原圭彦さんです。よろしくお願いします!

小笠原圭彦さんプロフィール

現在ダイビング歴32年のダイブマスター(CMAS)。経験本数は503本。写真家、水中写真家。オフィシャルギャラリーサイトGUWInstagramFacebookにて水中写真を紹介中。

高校生で一人旅。雑誌で見惚れた八丈島の海へ

クマノミとコーラルフィッシュ(和歌山県 串本)

――まず、ダイビングを始めたきっかけについて教えてください。

もともと中学の頃から写真が趣味で、新しいカメラとレンズを買うつもりで高校に入ってアルバイトを始めたんです。でも、貯金が貯まっていくうちに「一人旅がしたい」と思い始めて。

それで、高2の秋頃だったかな。旅行ガイドを読み漁ろうと本屋へ行った時に、何気なくダイビング雑誌(マリンダイビングとダイビングワールド)を手に取ったんです。これがダイビングへの憧れのはじまりでした。

水中の綺麗な魚たちの群れやマンタ、ソフトコーラルに群がるコーラルフィッシュを見ていると、なんだか無性にダイビングをしてみたくなり、マリンダイビングの八丈島特集を目にしたところで「来年の夏に八丈島へ行く!」と決めていましたね(笑)。

そして、高3の夏、旅行ガイドで見つけた宿がダイビング講習もしていたので、そこでOWを取得しました。

――高校生で八丈島に一人旅!素敵ですね。初めて潜った時の印象は覚えていますか?

スキンダイビングの経験があったので特に緊張もせず、器材をセットする時から、早く潜りたくてもうワクワクでした。

水中に入るとスキンダイビングと違い息継ぎに上がらなくてもいいし、より深いところへ行けるし、長時間水中にいられることで楽しさの幅がかなり広がりました。

それで、当初は10日間だけ滞在する予定だったのを、インストラクターでもある宿のオーナーさんに直談判して、雑用全般のアルバイトをさせて貰いながら滞在日程を伸ばしました。

結局、ひと夏ずっと八丈島で過ごして40本くらい潜りました。

――まるでドラマみたいですね!

確かに今思えばドラマチックな経験でしたね(笑)。

キンギョハナダイの群れ(和歌山県 串本)

――八丈島の海は期待以上でしたか?

八丈島で有名なポイントでナズマトというポイントがあるんです。エントリーするとイキナリどーんと落ち込んでいて、溶岩のアーチやカラフルなソフトコーラル、魚たち。タンクを背負って1発目の講習がそんな場所で、テンションがもう振り切ってしまって!

八丈小島のポイントなんかは流れが結構ある場所で、ここ川か〜!っていうくらい流れていて、掴んだ根を離すと数メートルも流されるなんて日もありました。それが楽しかった〜!

――楽しそうですね!帰って来てからもダイビングは続けられましたか?

はい。続けるつもりだったので、八丈島にいる間にインストラクターさんに相談して器材も一気に揃えて(笑)。帰ってすぐにダイビングショップを探して、ダイビングチームを紹介して貰って入りました。当時最年少でした。

――ダイビングチーム!ダイビングサービスとは違うのですか?

32年前って、今とはだいぶ環境が違っていたんですよ。今はCカード(レジャーライセンス)を取得してダイビングサービスやショップを利用して潜るというのが主流ですが、当時はまだダイビングブームが来る前。今みたいに現地サービスも充実していなかったんです。ダイビングショップはおもに物販やタンクチャージと講習を行い、そのショップのツアーやショップからの紹介、そして海で知り合った気の合う仲間たちでダイビングチームを作って自由に潜っていた時代でした。

チーム内で後輩のスキル指導なんかもしていたので、当時のチームの古株の人なんかはCカードを持っていない人もいたんです。その反面、事故も多くて、「ダイビングをレジャースポーツとして安全管理していこう」という動きが生まれ始めていた頃でした。

――なるほど、そんなに違っていたんですね。小笠原さんとは越前でご一緒させていただいたことがありますが、ゲストっぽくない自立したダイバーさんというイメージがあります。

自分のことは自分で考えて自分でする!人に頼らない!頼るなら潜るな!という感じで、今思えば僕のいたチームはかなり体育会系でしたね(笑)。危ないことも「経験から知る」って感じで。だからそう見えたのかな(笑)?

――ダイビングチームではどの辺りに潜りに行っていたんですか?

福井の敦賀や越前によく行っていました。当時は高速道路も今のように繋がっていなかったので、実家のある京都から白浜や串本に行くのに片道5時間とか混んでいたら8時間。なかなか行けなかったんですよ。暖かいシーズンは多い月で毎週1日、少ない時で月1日くらいの頻度で海に通っていました。

ツタモが茂る春の越前の海(福井県 越前海岸)

――その頃から日本海で潜られていたんですか!八丈島から日本海に舞台が移って、ダイビングの内容的にはどうでしたか?

八丈島は意外かもしれませんが越前と似ているんです。どちらもビーチが主流で、黒い岩がゴツゴツあって地形美もダイナミックです。ただ、日本海は魚が地味ですけどね(笑)。

ダイビングブーム到来。夢との葛藤。8年のブランク

キビナゴの群れ(宮崎県 日南市)

――ここで、小笠原さんのダイバー人生を簡単に時系列にまとめてみました!

  • 高校2年生でダイビングに憧れ、高校最後のひと夏を八丈島で過ごす。OW取得。器材一式購入。帰ってきてダイビングチーム加入。敦賀、越前に通う。
  • 80年代後半、ダイビングブーム到来。その頃、写真家として生きる夢とダイビングの間で葛藤し始める。
  • 23歳くらいの頃、バブル崩壊とともにダイビングチームは半解散。この後、ブランクダイバーに。
  • 写真家として独立、結婚、育児などライフステージが大きく変化し、ますます海から遠のく。
  • 2013年、水中写真の案件が舞い込み久々のダイビング。その1年後に奥さんがCカード取得。それから仕事先の方に誘われて、本格的にダイビング復帰。AOW取得。
  • 2019年、ダイブマスター取得。

――いろいろお聞きしたいですが、順に伺っていきます。爆発的なダイビングブームを経験されたんですよね。当時の様子を伺ってもいいですか?

僕がダイビングを始めて少し経って、時はバブル景気。学生のバイトでもそこそこ稼げた時代だったから、金銭的なハードルも今より低かったと思います。

その頃にあの「彼女が水着に着替えたら」という映画が一躍かって、ダイビングブームがやってきました!

――この映画の影響は本当に大きかったんですね。

そうですね。ダイビングの認知度への影響は驚くほどのものでしたよ。

それまでのダイビングって「遊ぶ」と言う感覚より「海に潜りに行く」という感じでした。でも、この映画の影響で「ダイビングは楽しむもの」というイメージが根付いたんだと思います。水中で無重力を味わい、上がってからその場所の観光や味覚、恋愛と。アフターダイビングって言葉もこの頃からじゃないかな?今のリゾートダイビングの走りですね。

ダイビング経験者からしてみるとツッコミどころは満載なんですが、あの映画にはダイビングの面白さがほぼほぼ全部詰まっていたように思います。海中に沈む米軍機をめぐる冒険、恋、ダイビング。それから水中スクーターなど海の遊び方も披露されます。ダイビングの魅力をあらゆる角度からうまく盛り込んでいましたね。

あの頃は海を目指して車で走っていると、同じく海に向かう車という車からサザンの曲が降るように聞こえて。僕らもそのひとりでした(笑)。

オジサン(和歌山県 串本)

――すごい盛り上がりだったんですね。でも反面、小笠原さんはご自身の「写真家」としての生き方との板挟みを経て、その後ダイビングから遠ざかってしまいました。

僕が所属していたダイビングチームのリーダーがその景気に便乗してダイビングショップを立ち上げたんです。当然ながら僕らチームメンバーは非常勤スタッフとしてショップの留守番やツアーのサポートをすることになったんです。それはそれで楽しかったです!

でもね、ブームで急激にダイバーが増えたからか、死亡事故もかなり増えた時期でした…。そうした流れからダイビングショップも安全強化が必要になってきました。今では当たり前ですが、オクトパスやダイブコンピューターの所持を推奨するようになり、器材購入時にお金がかかるようになってきたんです。

ゲスト側だけでなく、当然ながらスタッフも大きな影響がありました。ダイブテーブルだけでなくダイブコンピューターとオクトパスを必携することになり、インストラクターのライセンスも取る必要が出てきました。ダイブコンピューターはまだ市販されるようになったばかりで、確かコンソールタイプで一台が25万円くらいだったかなぁ!?高いでしょ!

でも当時、僕はカメラマンアシスタントとして就職していて、将来は写真家としてやっていきたい夢があったので、そんな余裕がありませんでした。かなり葛藤しましたが、結果、写真を選びました。

ダイビングチームも半解散状態になって、バブル崩壊とともにダイビングショップは倒産。海から遠ざかってしまったんです。

写真家として生きる道。そして、もう一度海へ

丸々と太ったミノカサゴとキンメモドキの群れ(和歌山県 串本)

――写真は中学生の頃からお好きだったんですよね。

そうですね。小学生の頃に写真の世界に触れ、中学三年生くらいからはプロを目指していました。

高校生くらいまでは「動物写真家になってアフリカで暮らすぞ!」と思っていましたね(笑)。岩合光昭さんのセレンゲティって写真集に感化されて。岩合さんは今は猫写真で有名ですが、昔はサバンナで野生動物を追いかけていたんですよ。

――そうだったんですか!でも、動物がお好きなら水中写真家という道もあったのでは?

水中写真オンリーの写真家になってしまうのが嫌だったんです。それで幅広くいろんな写真に関われる広告写真を選びました。

僕が写真を始めた頃はジャンルが今よりもかなり細分化されていて、それぞれに特化したカメラマンがいたんですが、僕はなぜそこまで細分化しなければならないのか疑問でした。僕はできれば人も風景も物も建築も料理も全てうまく撮りたいし、可能性を狭めたくなくて。写真というジャンルの中で何でも撮るけど、一つ一つも極めていきたいと思ったんです。

――なるほど。

バブル崩壊してしばらく経った頃に独立して、モデルやロケ地を探し回って作品撮りして、写真専門学校の非常勤講師をしたり、渡仏してみたり、グループ展の代表を務めたり、とにかく写真三昧の日々を過ごしていました。

そんな時に出会った彼女と結婚し、子供が生まれ、海からはますます遠ざかるばかりでした。この時点ですでに7年のブランクがありました。

――7年!ダイビング復帰のきっかけは何だったんですか?

仕事で水中撮影の依頼があって串本で潜ったんです。 それから一年ほどして、嫁さんにOWのCカードを取るように勧めて。その後また少し間が空いて、娘が3歳になった頃から、「将来は娘もダイバーになって家族揃って海に行けたらいいな」という思いから夏は必ず海に行くようになって。嫁さんと娘を連れてスキンダイビングをしていましたね。そのため、今でも小笠原家には浜辺でチャプチャプの海水浴は存在しません(笑)。

撮影中の僕を後ろから撮ってくれている娘(和歌山県 白浜)

本格的な復帰は、仕事先の方がダイビングを始められて「一緒に潜りに行きませんか」と誘いがあったからですね。その方との出会いとお誘いがなかったら今はなかったと思います。

――写真を理由に海から離れ、写真をきっかけに海に戻って来たんですね。そういえば、ダイビングを始めたのも(雑誌の)写真が原点。感慨深いですね。

今後を見据えて潜水士、ダイブマスターを取得

サガミミノウミウシのクローズアップ(福井県 越前海岸)

――復帰後にAOW、そして、ダイブマスターはついこの間取得されたんですよね?

そうですね。AOWは2013年、ダイブマスターは今年1月に取得しました。

最近まで取らなかったのは、実は八丈島でこのレベルくらいのことは既に経験してできていたんです。でも、最近の風潮だと「Cカードはスキルのエビデンス」といった考え方があり、「いろんなところでセルフダイビングしたい!」と思うとAOWくらいは必要になってくるので仕方なく取りました。

ダイブマスターはAOWを取った時に、いずれ近いうちに取ろうと考えていました。仕事で潜るために、先に書いたスキルのエビデンスとして潜水士とダイブマスターは持っておきたかったんです。

――取得して良かったですか?

経験上やって良かったですね。

ダイブマスターのひとつ手前のステップであるレスキュー講習は、人の命を救うためというより、「海難事故は人の命を奪う可能性がかなり高く生還率も低い」という現実をより実感できました。

ダイブマスターはスキル面はこれまでのおさらいでしたが、安全潜水への責任を今まで以上に自覚して楽しむ良い機会になったと思います。

――安全に、そして何より楽しくダイビングするために、ビギナーダイバーが学ぶといいなと思うものって何かありましたか?

ダイビングを現地サービスや行きつけのショップを通して楽しみたいというレジャーダイバーであれば、AOWまでで十分に世界の海を楽しめると思います。ただ、ハマっていってそれ以上のフィールドへ進んで行くなら、高位のレジャーライセンスや潜水士は必要になりますね。

大事なのはどのスキルのダイバーでも最終的には自己責任で「生きて上がる!」だと思います。さらに、一緒に潜る人の安全も共有できることが理想だと思います。

忘れられないスリリングなダイビング

アオリイカの群れ(越前海岸)

――それではここで、「印象的だったダイビング」について教えてください!

3つありますが、最初はやはり初めて潜った八丈島ですね。いろいろと印象深いことは多かったのですが、ある日のダイビング後、台風の影響でウネリが激しすぎて船に上がれず、「これはヤバイぞ!」といったん八丈小島に上がって器材を下ろした途端、参加者12人全員が大波にさらわれウェットスーツはズタズタ、数人はケガをして病院に行くことになりました。

ダイビングを始めたばかりだったので本気で死ぬかと思いましたが、この出来事がなければダイビングは続けていなかったかもしれません。

――というと?

一言で言えば、冒険心に火が付いた!ってことですね。

あの経験から学んだのは、何かが怖いからやらないのではなく、どうすればその不安や恐怖心を減らせるかなんだということ。スキルアップはもちろん、しっかりした事前準備で不安や恐怖心に勝ったり、突発的なトラブルにも「さあ、どうしよう?」と頭の中で作戦を練る。そんな時がすごく楽しいんですよ。その代わり、危険承知で行くのですべて自己責任ですけどね(笑)。

実はこの時、海に入る前に船頭さんから「荒れた海でも魚が傷つかないのは、魚は自然に体を任せるから。もし波にのまれても抵抗せずに流されなさい!抵抗して体に力を入れないこと!」と言われたんです。実際ズタボロになりましたが、あの時は無理な抵抗をせず、海に身を任せたからこれくらいで済んだのだと思っています。生きて上がれた時の安心と喜びは最高でした。

――冒険!たしかにダイビングは本物の自然やサバイバル感、ドキドキを体感できるのも魅力ですもんね。

カンパチの若魚、シオの群れ(福井県 越前海岸)

2つ目の印象的なダイビングは、2015年の冬に経験したエア切れの危機です。

嫁と白崎に潜りに行ったんですが、彼女にとっては初ドライスーツの日でした。普段は僕よりも20bar以上残圧があるのでそこをベースに考えながら潜り、僕の残圧が100barほどのところでゆっくり帰路に着きました。

その途中で僕が水底にいるホタテウミヘビを見つけて写真を撮りに戻ったんです。水深が23メートルくらい、残圧が90barだったと思います。写真を撮っていたら、横から嫁がゲージを見せながら浮上のサインを出してきたんです。それでゲージに目をやると、なんと!20barを切りかけてる!

僕はまだ80bar以上残っていたのでオクトパスを渡し「ギリギリまで自分のエアを吸って、10barを切ったらオクトパスに変えて上がる」とスレートで指示。でも、焦る気持ちからか、あっという間に嫁のエアは尽きて、オクトパスを咥えて浮上。なんとか安全停止して水面に上がった時には2人とも残圧はほぼゼロでした。

今思うと、初めてのドライスーツでの動きにくさと中性浮力の調整に戸惑ってたんでしょう。

僕も嫁と同じ残圧だったらとか、気付いた時に50barを切っていたらと考えるとゾッとしますね。以降残圧はおおよそ把握してても、必ずお互いに確認するようにしています。

――いつも一緒に潜るバディでも、油断は禁物ということですね。私のようなビギナーだと、その場で経験したら真っ青になりそうです。小笠原さんが焦らなかったことで無事に帰ってこられたんでしょうね。

3つ目は思わぬ海況の変化です。その日は3本予定していたのですが、朝は天気も良く青空が見える天候だったのに、2本目の途中で碇が引きずられるカンカンという金属音がしてきたんですね。

そしたらガイドさんが「上がるよ〜」ってサイン出してきたので、「ん!?ちょっと早くない?」って思ったら「上、上」というハンドサイン。水面を見ると、もう見たことないくらいのドンブラッコ状態でした。すごい光景でした。

この日は家族で潜りに行ってたのでキャリアの浅い娘のこともあり、ドンブラッコ写真を水中から撮れず!

波打ち際で日差しとともにスズメダイの群れ(福井県 越前海岸)

――どれもスリリングな体験ですね。冒険がお好きとのことですが、バディダイビングでないと満足できなかったりしますか?

初めて潜る場所はやっぱり現地のガイドさんに案内してもらって潜りますよ。ただ、思い切り楽しむためにゲストの方の少ない日や僕だけ貸し切り状態の日にするか、できるだけスキルのレベルを合わせてもらいます。

物語を感じられる水中写真を極めたい!

ダンゴウオの幼魚、天使の輪っかが可愛い(福井県 越前海岸)

――今後やってみたいことがあれば教えてください。

やってみたいことは、来年のカレンダーを作って販売したいな〜と!

――いいですね!Facebookを見ていると、水中写真も積極的に撮影されていますよね。

そうなんです。復帰した直後はコンデジを持って遊びで撮ったりしていましたが、本業の感覚が疼きハウジングを買って本格的に水中写真や映像を撮り始めました。水中写真も極めたいですね。

今は昔のフィルムの頃に比べてデジタル化のおかげで、水中写真はかなり撮りやすくなっていて、陸上で培ったスキルをそのまま無理なく水中で生かせる環境になっていたのは素晴らしいと思います。

僕が初めて仕事で水中写真を撮ったのはダイビングブームの頃、スポーツジムが作ったダイビングプールでの水中講習のシーン撮影でしたが、当時はデジタルではなく、ポジフィルムにニコノスIV型(水中カメラの機種)。広告に使えるレベルの写真を撮ろうとすると、スキル面でのハードルが非常に高かったです。

――そうか、昔は水中でもフィルムだったんですね!こんな水中写真を撮りたい、というイメージなどはありますか?

僕は「物語を感じられる写真」が好きなんですね。

水中写真だけに限らずこう思います。暮らしと営みの中で、命を繋ぐことは物語そのものだと考えています。食べること、子を生むこと、戦うこと、移動すること、暮らすことなど、命を繋げるためのシーンはたくさんあると思います。時には環境であったり、異種との関わりも影響してくると思います。写真や映像で何を捉えるのか。撮りたい被写体に対して思考と視点をワイドやテレにズーミングしながらそんな繋ぎの物語を捉えたいですね。

小魚を抱えるエビクラゲ(福井県 越前海岸)

――陸上で培われたスキルが活きたということでしたが、逆にダイバーが腕を上げるために陸上で写真を撮るとしたら、どんなことに気をつけるといいでしょうか?

たくさん写真を撮って光の読み方や調整、構図の構成が瞬時にできてしまえるようになることだと思います。

また、陸上と水中では世界観が全く違います。水中では陸上の空気の代わりにカメラと被写体の間に水があります。なので、水中では極力被写体に近づくことが大事だと思います。それにはかなりのダイビングスキルも必要になってきます。

水深45センチのところで鯵の群れに遭遇(福井県 越前海岸)

――ありがとうございます!光と、水と空気の違い。意識してみます。行ってみたい場所やターゲットはありますか?

潜りに行きたい場所は山程ありますね〜。

小笠原諸島、与那国島、積丹と羅臼、慶良間、八丈島、イスラムヘーレス島、カンクン、ラパス、紅海、ガラパゴス諸島、カナダ。

見たいモノは鯨、トド、バショウカジキの群れ、カナダでキングサーモンやレッドサーモンの遡上、大型回遊魚の群れ。

――冒険に終わりはないですね!さて、とうとう最後ですが、ダイビングを始めるか迷っている人にメッセージをお願いできますか?

ダイビングをするかどうか迷っている人って水が怖いとか、泳げないとか、鮫がいるからとか、いろんな理由がたくさんあると思いますが、大抵は苦手の克服か金銭面の克服、パートナーの理解でしょうか。

そんな諸々を解決できたら、ぜひ海に飛び込んで欲しいですね。きっと、今までに見たことも経験したこともないすばらしい世界が待っていると思います。

南郷の海(宮崎県日南市)

――ありがとうございました!

以前、越前のダンゴウオ幼魚を見に連れて行ってくださった小笠原さん。水温14度の海藻が生い茂る中、「こんな森みたいな海も好き」「越前は冬の荒れた波の影響で中くらい以下の岩が動くことがあって風景が毎年少し変わるから面白い」と、それまで予想もしなかった着眼点を教えてくださった先輩でもあるのですが、バックグラウンドを聞いて納得でした!

ダイビングブーム前からの30年以上のダイビングの歴史を垣間見ることもできて、なんだかとてもエキサイティングなインタビューでした。またいつか冒険譚を聞かせてください!